昭和40年03月22日 朝御理解



 皆さん。あの菊正宗という酒があります。あの菊正宗の菊正宗と書いてあるところ金箔でして御座います。下の方に菊の花が図案化されておるところ、あの水色の濃い水色ですねぇ。昨夜私は休ませて頂きましたら、今風邪の具合が悪いもんですからもがきに御祈念が済んでもう11時頃からまた新たな炎を焚き付けてくれましたもんですから、(   ?  )まぁ済ましてゆっくり休ませてもろうた。
 もう湯上がりの気持ちの良い気持ちの良い、状態で横にならせて頂いて。もうとにかくその有難いですね。もう体全身に有難さを感じるのですね。有難いなぁと思うてから寝ながらお礼を申させて頂いておりましたら、あの菊正宗のあれを頂くんですね。それでですね、あの菊正宗と書いてある所のあれが金色にです、燦然として輝いているんです、ね。菊正宗というあの所が。もう金色に燦然として輝いておる。
 そしてそれが私がまぁ有難いなぁと思うてこう、うとうととこうまぁしておる、その朦朧とした心眼にまたはお夢ともつかずですね、そのう下の水色の濃い水色のざんとした菊の花の所にですね、もうそれがもう広い広いその大海原なんです。上は燦然として金色に輝き、下は広々としたその大海原の濃いあの水色がですね、もう海の色ですよあれが。それをもう広々とずうっと私の心に心眼に広がっていく所を頂くんですねぇ。
 まぁそんな有難い有難い思いで休ませて頂いたんですけれども。その事を思うんですねぇ。本当にお互い一つ大きなおかげ。水色と言えば(重いものに徹する?)。金色と、さんと輝くというのは信心のいわば徳の光だとこう思うですね。そしてそうした、深い広い大海原のような信心。もう深い広いと言うたらまぁ大海原、大海より他に無いでしょうねぇ。深い広いという。
 という事はどういう事かと言うと、いよいよ天地の親神様の思いの深さ広さというものに触れていく信心。ね。浅はかな信心ではやはりおかげを(受ける事ができん?)。浅いところに大きな魚が住む筈はありません。ね。パチャパチャしておる様な浅いところにですね、大きな鯨を取るなんてったってそれは無理でしょう。小さい雑魚の様な魚しかおりゃしません。ね。信心をいよいよ深めていかな、信心もいよいよ大きい広いものにしていかなければならん。
 喜び一つでお徳を受けていく「此の方の道は喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせん」と仰る。その喜びを愈々大きなものにしていかなければならん。燦然と( ? )にしていかなければならん。おかげ頂いたもう一切がおかげとして頂けれる信心。はぁおかげがはぁおかげを頂いたと。という信心ね信心も一通りの事が分かるというのならお書物でも読ませてもらえば、大体なるほ、心に一つの、抵抗を持たずに宗教書なんかを読ませて頂いたらもう一つ一つ合点の出来る事ばかりなんです。ね。けどもそれじゃ自分の物になるという事はさぁ三年五年では難しい。
 「三年五年ではまだ迷いやすい」。為には「どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれ」とこう仰る。その身から打ち込んで信心させて貰わなければ、その迷わんですむ( ? )でも、驚かんですむ、迷わんですむ、どっこいおかげとしてそれを受け止めていけれるおかげが頂かれる。問題はねあほんなら簡単な事ですたいね信心ちゃぁ。もう何でん有難うございます有難うございますと言うていきゃそれで良かですたいね。
 それだけなんです実は。所が実際問題として中々それが中々自分の心が許しませんでしょうが。心を誤魔化す事は出来ません、ね。口だけでは誤魔化しが出来ますけれどね。心から真実それをそうと思う事は難しい。厳密に感じてみるとおかげ頂いたと口では言うとるけれども、心でははぁしもうたとか、どうしてじゃろうかとか、この頃神様が分からん事なったとかといった様な事にまで、なり果てて行く訳なんですね。
 昨夜の御理解に御神眼に(手の平?)凧をあげているんですねぇこうやって。凧をっとこう、楽しそうにその大空に泳いでるんです。それをそのちょっとその、糸を緩めるもんだから凧が揺ら揺ら揺らっとしてから下に落ちかかるんですね。糸を緩めるもんですから。ね。それまた元に、はっとこう握ってまたこうやっておるとまた凧がこう泳いでおる。ところが手元がプツっと、てまた糸が切れた。もうどこまで落ちていくやら分からないようにしてその凧が落ちていくところを頂いた。ね。
 緩めてもならん。切ってもならん。やはり緩めんでもすむ、切らんでも済む様なおかげ、さぁまた改めて( ? )行き詰まると言うか、分からせてもらってと言うか、また信心に打ち込む。また何とはなしに信心の有り難さが分かってくる。本当に分かってきた事あるかまた神様がいうならお試しとでも言おうか。めぐりのお取り払いとでも言おうか。氏子が切実に願う。
 おかげを頂かせて下さいと願うからまずめぐりのお取り払いと神様がめぐりのお取り払いにかかって下さると、もう揺ら揺らしてくる。もう糸を離さんばかりになってくる。ね。信心を大きなおかげを願えば願う程、大きな御用に使うて頂きたいと願えば願う程、神様はそういう手の込んだいよいよ神様の間違いなさ、思いの深さ広さを分からせる為に、ね、広い大きな限りの無い大海のような信心をさせて鯨の住むようなおかげを頂かせて下さろうとする働きが始まるのですから、しっかりね。
 信心の帯をさせてもらい、しっかり度胸しめてからの信心でなからなければ今日私が言う深さ広さというのは分からない。そこで私共はですね、根から神様の思いが分かると言うな事はなかなか難しい事でございますけれども、これ程の間違いが無い神様であるから、という事をまず分からなければいけないと。何かにつけてこれ程の間違いの無い神様であるからこの事も神様の御都合に違いは無い。
 例えば難儀の方の事、困った事のような場合はです、これ程の間違いのない神様であるからこの事だって神様のお計らいに間違いがある事はない。と御神意をいよいよ分からせて頂く事に努めらせてもらい。神様の御都合に違いはないと頂いてそれを有り難く受けていくという事。ね。その辺やはり繰り返し繰り返しですねぇ。やはり「三年五年の信心では迷いやすい」と仰るのですから。
 それが十年と、信心が続いてまぁ、繰り返し繰り返し失敗をしながら、緩みながら場合には切れながら。また新たな糸を手繰らせてもらい、握らせてもろうておかげを頂いていかなければならん。ね。本当にこの信心のです、信心じゃない、神様の思いの深さ広さという事に、触れていけれるという、信心にならなければ駄目です。ただ神様に自分の思いを、訴えるという事だけではいけん。どうでしょうね、ここに一人まぁ勉強家があって信心の勉強をする。
 はぁ金光様の信心はこういう信心だという事がまぁいうなら一通り分かる。分かったと、分かったからどんどんどんどん神様がもうおかげを下さるという事になったら、ね。本を読んで分かった位な事。一通り話を聞いた位で分かったような事で(  ?  )するならその人はいよいよ慢心増長するでしょうね。信心というのはそんな薄っぺらいもんじゃぁない。教祖の信心はそんなに浅はかなものじゃぁない。ね。
 どのような場合、実際問題とし、どのような問題にでも直面させてもらい、そこを信心で切り抜け、そこを信心で頂いて、頂かせてもらい都度都度に神様の思いの深さには恐れ入ると。大きな事を言うようであるけれども世界大戦も大坪総一郎一人の為にあったようないわゆる実感をさせてもらえれる信心。ね。親鸞聖人様が「世の中の一切の事をこの親鸞一人為にあっておる」と悟っておられますですねぇ。
 本当によくまぁざっと考えただけでもですね、ある私の大東亜戦争戦争があって、ね、弟が戦死していなかったら、私共が北京から( ? )に引き上げなければならない事にならな、ってなかったら。まぁ例えばその(二つの例?)をとっただけでも現在の私は生まれておりませんものね。してみるとあの大東亜戦争も終戦も大坪総一郎この人一人の為にあったと私が悟ったからって言うて大きな事じゃないでしょうが。親鸞が世の中の一切の事。この親鸞一人の為にあるのだと言うておる、ますようなですね。
 私共がほんに、成る程と分かるんだけれども、それをすぐに妨げるものが出てくる。昨日福岡の渡辺先生が、先生どういう訳でしょうか、神様をこう分からせて頂きながら、心が時々真っ暗になってしまう。一年前に神様にいろいろ頂いた事を、ノートしておった物を、出して見せて頂いておったら、はぁ一年前に、こういう素晴らしい事を頂いておる。この事一言だけでも、頂いたら有り難いのに、今の私はどうしてこんなに、事になって来たのだろうかと。
 しかも私の思いの中には、椛目の事をいつも思い続けさせて貰い、御造営の事なんかには、今度大きなお家を持っておられるそうですが、それをある事務所か会社に貸してね。それがスムーズに行けば、それをそのまま御造営費に当てたいという、願いまで持っておるのに思いの様にならないと。神様、神様じゃというような思いがする。暗い心がどういう訳でしょうかと言うて昨日、その事をさほど渡辺先生一つ何でしょうかね。めぐりの( ?  )頂かなければいけんのじゃないでしょうかね。
 分かっておるのじゃ心が真っ黒になる。その真っ黒するのがめぐりですよとと私は思う。与えるという字を一つ書いてか、あの略して書いたら数字の5という字にひく(-)という字が書いてあるでしょうがと。ね。これ(初代が紙に書いてある物を見せられる)ね、こう5という字を書いてそこに一の字を書いたのが与えるという字。これ与えるという字、ね。(よみちのよんなん?)。ね。
 5というのは業なんです。ぎょうという字を書く。仏教で言えば、業の深さとこう言う。めぐりの深さという事。それを業がね、様々な難儀に直面、し一生懸命の信心の喜びがです、その業を引いてしまう時、5をこうひく時、いわば与えられるという、おかげが受けられる。暗い心になろうと思うたっちゃ、有難い思いしか出て来ないと言う様なですねおかげになって来るんですよねぇ。
 随分( ? )何十年という様々な所へ生長の家の幹部であり、しらはと会の。ね。同時に密宗の日蓮宗の信者である、あった先生が愈々私を助けて下さるのは椛目と。愈々私の一生涯の信心とするのはもう金光教に他はないという所まで究めてお道の信心に飛び込んでみえた。ですからちょっと人とは大分違う所がある。にも拘らずです、今までにこの自分の業の深さとかめぐりの深さというものに気付いてなかった。
 成る程その業がめぐりが、私の心をイライラさせたり、真っ黒にさせたり、又は一つの難儀と言う様な形になって、現れて来るのであってみると、暗くなる事もまたおかげである。やれ痛や今みかげを、という心にならなければいけないのだ、という事が分かった。もう(   ?   )その、その事を分かられてですね、涙を流して喜ばれるんですねぇ。いわゆる愈々神様の思いの深さが分かって来た訳なんですねぇ。
 思いの深さ広さ、ね。そこに私はめぐりのお取り払いが頂けるというのと同時に頂けれるのが、私は与えられる物いわば私共の心の中に愈々(血のように?)頂けて来る所の喜びである。それが今日、さんとして輝くような信心の徳にまで高められていき、その高められていく道すがらに私共の心がいやがうえにも深さに広さに触れていくことが出来る。そこにその深い広い大海原のような心の受け物が出来て初めて、鯨の住む様なおかげがまた限りなく頂けていくという事になるのですから。
 一つの問題をです、本当に追及するという求道の心がなからなければいけない。ね。これだけ頼んだけれども、これだけ縋ったけれども、とにかく自分を中心にした小さい願い、ね。その、その願いの中からです神様の御神意の深さを分からせてもろうておかげにしていき、そういう事が段々分からせて頂く時にです、本当の事は分からんでもはぁそれはおかげじゃ。神様の御都合に違いはないんだと。ね。
 ( まぁだ信心が足りんとは言わん? )さぁこれからまぁ一信心させて頂こうもうひと力受けさせて頂こうという信心、そこからおかげが受けられると教祖様は仰っておられますからね。信心をいよいよ深めていく広めていく所の信心。「此の方の道は喜びで開けた道だから」と簡単な事だけれどもこういう所を一遍通らせて頂いてからの喜んで開けた道であり、喜んで受けられるのであり、だからこそそこから喜びが開けて来るという事が分かるですねぇ。
 口だけではぁ有難い有難いと言いながら心で、ではなかったんではそれを喜びで受けて(いけ?)ないのである。神様の思いの深さ広さが分からせて頂いて、ね、そして本当の事は分からんでもこれ程の間違いのない神様であるからこの事も神様のご守護の中にあって起こっておるのだという事が分からせて頂く時です、おかげ頂いた、いよいよおかげに間違いないぞと言い切れれる、思い込めれる信心。
 どうぞあの菊正宗をもう一遍ようくご覧になってですねぇ。あの金色の所に菊正宗と書いてある。ね。菊とは喜び久しいと書い、書く。ね。その図案化、菊の花の図案化の所にもうそれこそまっ更な、あの金に水色で、図案化してある下の水の所塗り潰してある。成る程、菊正宗な的な信心させてもらって上は燦然として輝く金色の色、下は大海原の水の色に似たような、みず、あの、水の色。ね。ああいう信心を私共の心の中に一つの理想として、目指しとして信心を進めて行きたいと思うです。
   本日はおかげ頂きました